今回の展覧会の主役である七人の陶芸家およびその代表作についてご紹介いたします。

荒川豊蔵」「中里無庵」「金重陶陽」「加藤唐九郎」「川喜田半泥子」「石黒宗麿」「小山冨士夫

 

荒川 豊蔵(あらかわ とよぞう)

  明治27年(1894)〜昭和60(1985)
  岐阜県土岐郡泉村(現、多治見市)生まれ

 昭和5年美濃大萱の古窯跡で志野の陶片を発見した荒川豊蔵は、桃山陶再現の火付け役となり、古典復興の主導者として活躍した陶芸家である。唯一陶片を手掛かりに、素材・窯・技術など全てに自然に徹した作陶姿勢を貫き、試行錯誤を重ねながら志野・瀬戸黒・黄瀬戸の再現に尽力した。とくに志野では、長石釉に緋色がほのかに映える「豊蔵志野」ともいえる逞しく温雅な独自の作風を確立した。昭和30年志野・瀬戸黒の技術で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、また同46年には文化勲章を受章している。
鼠志野亀甲絵茶碗  「鼠志野亀甲絵茶碗」
(ねずみしの きっこうえ ちゃわん)

   昭和28年(1953)
   高:8.5*径:13.0
   愛知県陶磁資料館(川崎音三氏寄贈)

 鼠志野は、素地に鬼板で化粧した後、模様を掻き落として長石を原料とする釉薬(志野釉)を施し、鼠色の地に模様を白抜した志野の一種で、桃山時代に茶陶として焼成された。美濃で志野の陶片を発見した豊蔵は、古窯跡近くに陶房を構え研究を重ねながら「荒川志野」と呼ばれる独自の作風を確立した。やや厚手のふくよかな器形に、鉄化粧と長石釉の濃淡で緋色に鼠色が、貫入や梅華皮をともなって霜降り状に表出し、浮かび上がるように現れた亀甲の文様と共に、新鮮な装飾効果を生みだしている。


 


中里 無庵(なかざと むあん)

  明治28年(1895)〜昭和60年(1985)
  佐賀県松浦郡唐津村(現、唐津市)生まれ

 唐津藩御用の家系を引く中里無庵こと十二代中里太郎右衛門(本名・重雄)は、かって茶陶として名声を誇った古唐津を、現代に再現した陶芸家である。昭和初期から岸嶽山麓に残る皿屋・飯洞甕・帆柱などの発掘調査に取り組み、厳しい経済事情の中、胎土・釉薬・成形・焼成法の研究を重ねた。絵唐津・斑唐津・叩き唐津などの技術を再現し、茶碗や水指といった茶陶中心に独自の作風を確立した。昭和44年大徳寺で得度して「無庵」と号し、同51年には唐津焼の技術で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
朝鮮唐津耳付水指
「朝鮮唐津耳付水指」
(ちょうせんからつ みみつき みずさし)

   昭和50年(1975)
  高:17.8*径:20.0
   個人蔵

 朝鮮唐津は茶陶として名高い古唐津の作風の一つで、黒釉と藁灰を原料とする白濁釉を、上下または左右に掛け合わせた色調に特色がある。なかでも水指・花入などの成形には、桃山以来粘土紐を積み上げ、内外を叩き締め成形する叩き技法が好んで用いられた。無庵の最もみるべき作陶は、朝鮮唐津の水指にあるとされる。水指は晩年の制作されたもので、
叩きではなく紐つくり轆轤成形であるが、どっしりとした質朴な存在感を備えている。重厚な独自の器形や、頸や胴の篦目を伝って流れる釉調など、陶技全般に円熟味が感じられる作品である。


 


金重 陶陽(かねしげ とうよう)

  明治29年(1896)〜昭和42年(1967)
  岡山県和気郡伊部村(現、備前市)生まれ

 備前窯元六姓の一つ金重家に生まれた陶陽(本名・勇)は、明治以来衰退していた備前焼を今日の繁栄に導いた業績で「備前焼中興の祖」と称されている。当初は人物・動物・花鳥などの細工師として活躍したが、作陶に行き詰まり感じ、昭和初期から古備前の再現に取り組んだ。陶技研究は勿論、茶の湯を学び、収集家を訪ね名品を実見するなど研鑽を重ね、備前の土味と緋襷など窯変を自家薬籠中のものとした。花入や水指など茶陶に独自の作風を確立し、昭和31年備前焼の技術で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
備前三角擂座花入


「備前三角擂座花入」
(びぜん さんかく るいざ はないれ)


  昭和28-29年(1953-54)
  高:24.1*径:12.6
  岡山県立美術館

 耐火度の低い田土を長時間焼き締める備前は、その色・艶・模様などに生じる多彩な窯変が、侘び茶の精神を見出した茶人たちに愛された。擂座とは頸部に鋲状の円座を貼り付ける装飾法で、桃山茶陶で好んで用いられたものである。幅広い作域をこなした陶陽だが、特に花入と水指に関しては徹底して研鑽を積み、また窯詰めでは「窯づめで窯をたく」と語るように、炎の流れを計算した独自の姿勢で臨んだ。篦取りされた大胆な器形が、焦げやヌケなど窯変が生み出す豊かな景色に調和し、現代的な趣が感じられる花入である。


 


加藤 唐九郎(かとう とうくろう)

 明治30年(1897)〜昭和60年(1985)
 愛知県東春日井郡水野村(現、瀬戸市)生まれ

 少年期から桃山陶に魅せられ陶片拾いに明け暮れた加藤唐九郎は、大正7年頃から国内外の古窯跡の発掘調査を手掛け、その再現を越え躍動感溢れる力強い作風を確立した陶芸家である。当初は研究者として、『黄瀬戸』や『陶磁大辞典』の出版編集も行っている。生涯つくり続けた志野をはじめ、豪快な轆轤と独自の即興的感覚が冴える唐津や信楽、徹底した技法や原料の解明で得た技術に、独自の造形と意匠が調和した織部など作域は幅広い。中でもこれらの特性が集約された晩年の黄瀬戸は、唐九郎作品の最高峰と評される。
黄瀬戸輪花鉢


「黄瀬戸輪花鉢」
(きせと りんかばち)

 昭和33年(1958)
 愛知県陶磁資料館(川崎音三氏寄贈)


 


川喜田 半泥子(かわきた はんでいし)

   明治11年(1878)〜昭和38年(1963)
   大阪市東区生まれ

 建前や約束事に囚われない、雅趣に富んだ独自の茶陶を制作した川喜田半泥子(本名・久太大夫政令)は、実業家として活躍しながら桃山陶の本質に迫った出色の陶芸家である。当初は数奇風流であったが、昭和7年から本格的な作陶に入り、手掛けた茶碗は楽・萩・唐津・志野・瀬戸黒・織部など三万五千個以上という。光悦や乾山の自在な素人精神を敬慕し、同17年には豊蔵・十代三輪休雪・陶陽らと「からひね会」を結成するなど、桃山や桃山再現を志す陶芸家の精神的指導者、また経済的支援者として大きな役割を担った。
伊賀水指 銘 慾袋


「伊賀水指 銘 慾袋」
(いがみずさし めい よくぶくろ)


昭和15年(1940)頃
 高:18.0*口径:22.0*胴径:23.1 個人蔵

伊賀の名品として名高い津藩藤堂家伝来の《伊賀耳付水指 破袋》(重要文化財-五島美術館所蔵)を範とした水指である。実物を何度か見た体験をもとに三点制作したといわれるうちの一つ。全体に掛かった自然釉、底部の焦げ、中央の豪快な山割れなど古伊賀の重厚な風格を備えた作品である。頸部が歪み、胴部がたっぷりと膨れ上がったその姿は、いかにも「欲袋」という感があり、また山割れを継いだ青海波の蒔絵もユニークである。荒々しく力強い存在感のなかにも、ユーモラスな遊び心が感じられる半泥子らしい作品である。


 


石黒 宗麿
(いしぐろ むねまろ)

  明治26年(1893)〜昭和43年(1968)
  富山県作道村(現、新湊市)生まれ

 曜変天目との衝撃的な出会いを契機に本格的な作陶生活に入った石黒宗麿は、宋磁や古唐津の技術を基調に、自由奔放な遊び心を備えた多彩な表現世界を確立した陶芸家である。
小山冨士夫との交友を通じて磁州窯に傾倒し、また唐津では白濁釉などの研究に取り組み、優れた作品を制作した。昭和15年には最も重要な成果として知られる木の葉天目の再現に成功し、戦後はチョーク画・芋版・彩瓷などユニークな技術を次々に創案した。昭和30年には鉄釉陶器の技術で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
鉄絵荒蕪文盆


「鉄絵荒蕪文盆」
(てつえ あらかぶもん ぼん)


   昭和41年(1966)
  高:5.0*口径:30.0
   愛知県陶磁資料館
(川崎音三氏寄贈)

 鉄絵は鬼板土・ベンガラ・黄土などの含鉄土石を顔料として、素地に絵模様を描く釉下彩の一つで銹(錆)絵とも呼ばれる。絵付の後は透明釉などを掛け本焼きする。3世紀頃に中国で始まったといわれ、朝鮮半島を経由して16世紀末頃に唐津や瀬戸に伝えられた。宗麿は晩年この手の唐津風の鉢に、荒い藁の様なものを筆に用いて、菜園や草文などを描いた作品をよく手掛けていたようである。浅く広い見込みを生かした自在な筆さばきで、勢いよく荒蕪が描かれた、随所に宗麿らしさが感じられる作品である。


 


小山 冨士夫(こやま ふじお)

 明治33年(1900)〜昭和50年(1975)
 岡山県浅口郡玉島町(現、倉敷市)生まれ

 世界的な陶磁研究者としての見識を基調に、桃山陶から中国・朝鮮古陶磁の特長を活かした独自の作風を確立した小山冨士夫は、他に類を見ない希有の陶芸家である。「日本六古窯」を命名者としても知られ、昭和34年からは文化財保護委員会で重要無形文化財(人間国宝)の選定に携わった。作域は広範で多種多様であるが、洗練された装飾や技巧よりも、唐津・備前・信楽など稚味が溢れる自然で素朴な作風を好み、晩年には種子島を創作している。また桃山陶を巡る交友という点でも、その中心人物として重要な役割を果たした。
色絵金彩花茶碗


「色絵金彩花茶碗」
(いろえ きんさい はなちゃわん)


 昭和49年(1974)
 個人蔵



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